頭蓋骨の欠片の話
私の頭には、親和性アルミナという小さなセラミックが入っている。
あらゆる場面で、「なぜお酒をずっと飲んでこなかったのか」、「なぜ免許を持っていないのか」ということを聞かれる時、一言では説明できないのでまずこれを書くことにした。
時は遡って2001年。それは私がまだ19歳で、京都の芸大に入った最初の冬のことだった。
当時写真基礎を取っていた私は、日中多くの時間を校舎の地下にある暗室で過ごし、写真の現像に没頭していた。当時学校の前には小さなコンビニがあって、あまりにも日に当たらない不健康な製作の合間に、ちょっと行って帰ってくるにはちょうどいい距離感の休憩所となっていた。
ある日いつものように暗室で印画紙を水洗にかけ、そのコンビニに出かけた。そして次の瞬間には、京都市立病院のベッドの上で目を覚ましていた。
そこにはなぜか神戸にいるはずの両親がおり、日付は暗室に入った日からはすでに二日も経っていて、何が何だか分からなかった。
意識は漠然としていて、そうだ印画紙を早く水からあげないととか、二日後(実際には目を覚ました日)に控えている親友の誕生日プレゼントを買わないととか、コンビニに行きながら考えていたことの続きがぐるぐると回っていた。
徐々に意識がはっきりしてくると、自分が交通事故にあったこと、二日前ここに搬送されて緊急手術をし、今日意識が戻ったのだという説明を受けた。にわかに信じがたかったが、確かに体は動かないし、頭の髪の毛はないし、身体には色々管がつながれているし、なるほどこれは大ごとだったに違いないとようやく事の重大さに気が付き始めた。
どうやら、大学の目の前でバンに撥ねられてしまったらしかった。何も記憶はないし、その瞬間のことを自分の目で見ていないので、幸い恐怖やトラウマのようなものはなかった。その接触の際に私の左頭蓋骨の一部が割れたのだそうで、緊急手術ではその部分の頭を開放し、割れている破片を取り出してまた閉じるという処置が行われたそうだった。
運よく意識こそ戻ったものの、生死をさまよう大重体であったことには変わりなく、しばらくは個室で厳重安静、トイレも管をつないで全く動かない日々が続いた。
落ち着いてから鏡で自分の顔を見せてもらうと、なるほど、頭蓋骨を取り除いて閉じた部分が炎症を起こしていて、正面から見るとお餅のようにぷく~っとはれていた。これが徐々にひいて落ちくぼむ頃、欠けた部分にぴったりとはまるサイズのセラミックを入れる次の手術が行われるとのことだった。
何もかもが他人事のようで遠い夢の話のようだったが、つながれた管や毎朝の採血の痛み(血管が細いので見つけにい)、完全なる寝たきり状態を体験しながら、ようやくこれが自分に起きたことなのだと認識することができた。
あの入院生活は、私がそれまでの人生の中で二回目に自分の計画や予定したことをすべて中断せざるを得なくなった出来事で(小学校の時の阪神淡路大震災を除いて)、またその後の人生においても一回目のターニングポイントとなった。
大学の一回生初めの冬。様々なことに期待を寄せ、やりたいことも野望も色々あったあの日々。その几帳面な計画表みたいなものに強制終了の幕が下りたかのように、学校には行けない、とりあえず起き上がっても安全な状態に回復するまでのことを考えることが目下のゴールとなった。
締め切りは守る、予定はなるべく遂行する、出された課題はやる、など割方真面目なほうだった私にとって、その停止は青天の霹靂のような事態だった。
はずだった。
今思い出しても不思議なことだが、あのような状況において悲観的に感じる時間はなかった。驚くほど後ろ向きな感情は湧いてこなかった。それは、単純に「いのちだけでも助かったので御の字」という類のものではなくて、それとは全く別の次元で、ありのままを受け入れるということがストンと当たり前になされた感じがあった。「ああそうか。なるほど」という感じ。死にかけるという体験は、抱いていたイメージからはかなり程遠い現実として降りかかってくるものなのだと、その時ふいに納得した気がした。
状況を早々に受け入れてからの毎日はかなり楽観的で、毎日の病院食が美味しいこと、看護師の方が皆親切に優しくしてくれること、母がべったりと横について看病してくれること、それから唯一ベッドから見上げる窓の外の空が青いこと、移り変わる一日の光の色が違う事、そんな何気ないことだけがその時の自分にはこの上なく幸福に感じられ、ほどよく満ち足りて穏やかな日々が流れていった。
もちろん細かいことを言えば管が痛いとか寝たきりの背中が痛いとか色々はあったが、それ以上にこの毎日信じられないくらいの有り余っている時間がゆっくりと流れていくさまがとても尊く幸せで、それまで誰にも教わったことのなかった「生きているだけで、十分なのだ」ということがすんなりと自分の中に肯定された。
このいのちは、ここにあるだけで十分。それ以上もそれ以下もない。これで十分。
当時19歳だった私はぎりぎり年齢制限によって小児病棟に入れられており、その他のこどもたち同様に3時にはおやつがもらえた。真面目に療養していたので順調に回復もし、やがて個人の部屋から共有病室へと移してもらえた。
そこでの思い出は、同じ部屋の誰かの排便の匂いや、隣の病人が爪を切られるのを怖がっている声など、様々ないのちの生態が五感を通して毎時伝わってきたことだった。そしてその全てに嫌悪感は抱かなかった。他人の糞尿の匂いに対してさえ、「ああ、生きているんだな」とほっこり感じとっていた。
こうして二か月後私は無事に第二手術を受け、予定通り左上頭蓋骨にセラミックを入れてもらった。
その時伸びてきていた髪の毛をもう一度ツルツルに剃ってくれた病院内の床屋のおじさんは、なんと緊急で運ばれてきた私のことを覚えていた。
あの時、血だらけのコートを引っぺがし、損傷した頭を一体どのように剃ったのだろうか。今となっては分からなかったが、二回目に意識のある状態でスキンヘッドにされて分かったことは、頭に髪の毛が一切ない状態と言うのは常に頭皮がむずがゆい、ということだった。ムズムズする頭皮をかきたいのはやまやまだったが、細菌感染を防ぐためにそれは禁じられ、代わりに(?)アツアツのおしぼりを頭に乗せられ、これでかゆさをしのいでおけ、といういささか無茶な指令が出た。
後日談としては、無事大学生活に戻った私の頭は引き続きぼんやりとしており、術後経過の間膨大な量の睡眠時間も必要とした。左顔面神経もしばらく動かなかったので、低周波のリハビリ機をあてがわれ、少しずつでも動かせるように毎日決まった時間筋肉を動かす訓練をし続けた。
外ではどこへ行ってもパジャマで浮遊しているような感覚が続き、もうそれまでのような努力目標のようなものは持てなかった。毎日は、漠然とそうやって過ぎていった。
ここでやっと本題に戻るのだが、退院後も「今後も癲癇の可能性に極力注意」とのことだったので、向こう3年ほど飲酒と運転はしないようにとドクターストップがかかった。
つまりそれが私が学生時代にその両方のスキルを取得しなかった元々の理由という説明になる。
なぜ3年過ぎてからもお酒を飲まず運転免許を取らなかったかは、その時代の自分に必要性を感じることができなかったからだとしか言えない。お酒を飲まなくても必要な人間関係は保てたし、運転しなくても別の手段で移動することができた。そうして私はそのまま下戸でノー免許の大人として年を重ねていった。
ちなみに、頭に入れた親和性アルミナは千葉の製作所さんの助けを借りて私の卒業制作にたっぷりと使われた。そのためだけに滑り込み入部した陶芸部で焼き物を学び、何頭もの羊を焼いて2メートルくらいの水槽に沈めた。周りからは宇宙人だと言われていた。
今も私の左頭蓋骨に眠る羊。残りのからだはその存在を受け入れながら、今日までのいのちを預かっている。
その存在を意識する時、この何もかもはオマケに過ぎず、この世界は限りなく自分に与えられているということを再認識する。
このいのちが続いている限り、私という存在の暇は有り余っている。
これから先もずっと、自分には忙しすぎて時間がないということは永遠にないだろう。どんな時もいつも暇だと、常に公言している所以はここにある。
生きている限り、私に時間がないということはありえない。世界中の時間を持つと、それは特別なことでありながら、同時に気が遠くなるくらいに長く尊い現実への対面でもあるのだった。